加古川探訪 加古川掲示板 ホームへ
第1回「我がまち加古川」 第2回「加古川の春」 第3回「未来に残そう大切な宝物」 第4回「市民の足加古川線」
 
   
 
 
 

<西方寺 > 
西方寺は浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。紫雲山引接院と称し、開基上之宮豊聰皇子がこの地に降臨し、草創したと伝えられています。享保2年(1717)に絵師良賀法橋筆の当麻曼茶羅変相図が奉安され、中将姫の命日の前7日間、「まんだらさん」が行われるようになりました。以来「まんだらさん」は、初夏恒例の仏教民族行事として定着し、開催日の5月3日は、宗派や郷土、壇信徒の人々が集い、賑わうということです。

     
  <法音寺 > 
法音寺は浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。開山開基については明らかではありませんが、本尊阿弥陀如来像や、薬師堂に安置されている薬師如来像などから、かなり古いものと考えられています。特に阿弥陀如来像は、平安時代末期のものと推定され、市の指定文化財でもあります。加古郡誌には、「当山は昔、天台宗にして八幡山長福寺と称せしめ、享保14年(1729)、高空士三和尚が中興して浄土宗に改め寺号を法音寺とす」とあります。
     
  <観音寺>  
観音寺は曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来、聖観世音です。延喜16年、醍醐天皇の勅願により、九州肥後阿蘇神社(熊本県北東部)の神主友成はは、上洛の際、高砂の港に船を止めました。高砂・尾上を見物し、上船する際に浜辺につき立てた竹の枝が、その後わずかに根付き、枝葉が茂り、竹山ができました。それを生竹山と名付け、一宇を建立して安置し、藤内家に守ってもらうことを醍醐天皇が勅願されたのが始まりと言われています。
     
  <龍泉寺>  
龍泉寺は浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。伝説によるとその昔、付近に大池があり、大蛇が棲息して里人を苦しめていたのを、一人の旅僧(観智上人)が退治し、寺が開創され、その縁により龍泉寺という寺号が起こったと伝えられています。境内のお堂には、「龍泉寺ピッパラ子供文庫」があり、児童書を中心とした蔵書は約5,000冊。現在も文庫活動が続けられています。大人を対象としたライブラリーコーナーもあります。
     
 

<光念寺>  
光念寺は真宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。慶長元年、篠原村西本願寺末善照寺の住僧、本多西賢が東本願寺實如上人に帰依し、創めた寺院で、加古郡東本願寺派のはじめです。境内には、芭蕉中興六家の俳人松岡青蘿(せいら)の句碑があります。
−「舟ばたや 覆ぬぎ捨つる 水の月」−
また、三代龍心の妻が赤穂義士原惣右衛門の妹であったことから、惣右衛門ゆかりの書状や枕屏風や、大石良雄の桜石が残っています。

     
  <春日神社>
文治2年(1186)ごろ、時の雁南庄の領主糟屋有季によって建立されたこの神社は、奈良本宮の春日神社の分霊が祀られています。加古川城主糟屋武則は、この有季の子孫にあたります。化け猫話で映画化にもなった、通 称「赤壁さん」と呼ばれているのは、境内に並ぶ赤い壁が印象的な丸亀神社です。近くには、加古川に現存する唯一の異人館「ニッケ社宅倶楽部」があります。
     
  <尾上神社 > 
祭神は住吉大明神(海の神様)です。境内には有名な謡曲「高砂」に謡われた相生霊松「尾上の松」があり、現在の松は五代目で、樹齢約100年と言われています。また代表的な朝鮮鐘で、重要文化財にも指定されている「尾上の鐘」も有名です。その昔、海賊に盗まれて海に沈められた後、漁師の手によって引き上げられ、高野山に奉納されましたが、鐘の音が「おのえへ、いのー。」と聞こえたことから、尾上神社に戻されたという伝説があります。
     
  <泊神社>  
祭神は、天照大神・少彦名神・国懸大神です。伊勢神宮の御神体の一つである御鏡がここに泊まり着いたことが、泊神社の創まりと言われています。現在の社殿は、承応2年(1653)、宮本武蔵の養子である宮本伊織が改築した時のものと言われ、広い境内には、南北朝時代の石弾城の石垣と思われるものや、宮本伊織寄贈の花崗岩製の灯篭、市指定文化財の36歌仙図絵馬などが残されています。
     
  <日岡神社> 
正一位日向大明神ともいい、主神は天伊佐々彦命です。景行天皇の皇后、稲日大郎媛が懐妊された時、最初の皇子が大変な難産だったため、天伊佐々彦命が七日七晩安産を祖神に祈願したところ、無事に出産されたことから「安産の神様」としてその名を馳せ、播磨随一の大社となりました。現在も各地から安産祈願や御宮参りの参拝者が絶えません。景行天皇の后、稲日大郎媛の御陵である日岡御陵への表参道が社殿に向って右側にあります。
     
  <五社宮(野口神社)> 
主神は、日吉(ひえ)大神です。約350年前に創建されたと言われ、比叡山延暦寺の守護神、日吉大社から分霊をお迎えし、のちに四柱の神を合わせ祀ったという説もあります。山王五社宮と呼ばれ、権現号を称してきましたが、明治の初めに野口神社と称するようになりました。神社の西にある教信寺とは、延暦寺の末寺であることから、深いつながりがあるということです。





Copyright(C)2001 Gokurakuya Butsudan-ten. All rights reserved.