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第1回「我がまち加古川」 第二回「加古川の春」 第3回「未来に残そう大切な宝物」 第4回「市民の足加古川線」
 




◆近世から明治大正にかけての人々の足

加古川 加古川域内では、近世から明治大正にかけて、播磨平野の産品を大阪方面に運ぶために欠かせない運搬手段として高瀬舟による舟運が発達していました。
加古川の岸には河岸(カシ)と呼ばれる船着場があり、そこでは米や物資を集めて積み込みが行われ、米の仲買人、問屋と称される舟持ち、干鰯(ホシカ)屋や銀貸しがいて、賑やかな町場をつくっていました。
しかし、加古川舟運は大正2年(1913)の播州鉄道(現:JR加古川線)開設により、約320年間の丹波や播磨の経済と文化の動脈としての役割を終えました。


◆加古川駅の開業のころ

当時、まだ鉄道が町の発展に寄与するものという認識が薄く、開設当時は現在の位置より海岸線に近い浜手を通過する案もありましたが、古来より物資の集散地として栄えていた港町高砂は、付近に鉄道が開通すれば旅客を奪われると考え鉄道の開通を拒絶したと伝えられています。
開設当時の加古川駅は、数軒の建物しかなく、蓮池などの湿地が多かった場所だったそうです。

加古川駅舎
昭和35年頃の加古川市は人口約9万人と少なく、車社会の到来前ということもあり、現在の駅前と比べて、のどかな雰囲気を醸し出していたそうです。


◆現在の市民の足としての加古川線

せいりゅう号


現在、加古川線は通勤、通学、買い物、通院といった日常生活のなかで、自動車を運転できない人々にとって重要な移動手段のひとつとしての役割を担っています。
また、非常時の迂回ルートとしての役割もあり、阪神・淡路大震災の際には、JR東海道本線やJR山陽本線などの代替路線として人員や物資の輸送に活躍しました。
しかし、加古川沿線地域においても、少子化や高齢化といった問題が見られます。
昭和60年度には年間約308万人であった乗車人員は平成10年度には約206万人に減少しています。大きな要因として、自動車利用の増加と少子化や、週休2日制の普及といった社会環境の変化によって通勤・通学者が減少していることが考えられます。
また、運行本数が少ないことやスピードが遅いことが、利用者にとって非常に不便であるため、早期に輸送環境を改善する必要がありました。そのため、地元自治体や、JR西日本の努力もあり、 JR加古川線電化が決定し、平成17年春の完成に向け工事が始まっています。





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