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第1回「我がまち加古川」 第2回「加古川の春」 第3回「未来に残そう大切な宝物」 第4回「市民の足加古川線」
 


加古川市内の加古川駅から厄神駅までを各駅停車して、ぶらりと町の歴史スポットを訪ねてみましょう。

加古川沿線マップ


◆加古川駅 〜古い駅舎と高架化〜

加古川線の玄関口である加古川駅舎は、明治43年建設の大変歴史ある建物で、大正8年に大阪の桜島の駅舎を移築させたものです。
加古川駅はJR山陽線と連絡し、新快速電車の停車駅として加古川市民だけでなく、近隣地域住民の足としても頻繁に利用されるようになっています。
加古川駅加古川線ホーム 駅へのアクセス道路は、踏み切りと平面交差している線路のため、昨今の自動車事情と重なり、交通渋滞が頻繁に起こるようになりました。現在この問題を緩和させるため、加古川駅を高架化し、踏み切りなどによる交通渋滞をなくそうとしています。
そのため、唯一残っていた南改札口の古い駅舎も取り壊される予定になっています。


◆日岡駅 〜日岡神社と安産伝説〜

加古川駅より約4分の乗車で日岡駅に到着します。駅は無人で、駅を北に行けば加古川の堤防に出て、南に行けば田園が広がっています。
日岡駅を出ると正面に小高い丘が見え、そこには桜で有名な日岡山公園と日岡神社があります。駅より約徒歩5分で、木々の生い茂る中、日岡神社に到着します。日岡神社は古来より安産の神様として播磨地域内外から多くのお参りがあります。

天平の時代(約一三〇〇年前)の創建といわれています。
第十二代景行天皇の皇后である稲日大郎姫命(いなびのおおいらつめのみこと)が最初のお産が難産で大変お苦しみになられたため、次に皇后がみごもられた時に、天伊佐佐比古命(あめのいささひこのみこと/当神社の主祭神)が七日七夜祖神に安産を願い、無事双子の皇子を御安産なされたという伝説が残っています。
双子の皇子の一人が有名な倭建命(ヤマトタケル)です。
日岡駅と日岡神社


◆神野駅 〜加古川大堰と洪水との戦い〜

神野駅は住宅街の中にあり、通勤や通学の住民の足として利用されています。しかし昼間は時間が止まっているかのように錯覚するくらいのんびりとした静かな駅です。
駅を出て、陸橋を渡り、少し歩くと加古川の堤防に出ます。
加古川は播磨地域でもっとも大きな河川で、豊かな水がもたらす肥沃な土地のおかげで、人々の暮らしを潤してきましたが、この河川は古来より氾濫をよく起こし洪水となって加古川の住民を困らせてもきました。
洪水の歴史は記録に残っているだけでも百回を越し、古い記録によれば1225年、大洪水のため当時の村の屋敷や田畑は残らず流れ出てしまい、一面河原となってしまったとあります。
神野駅と加古川大堰 数百年にわたり幾度となく洪水対策が講じられ1980年、洪水の安全と下流部の水の補給、河川維持用水の確保、新規水道用水の開発などのために加古川大堰事業が始まりました。
1988年に完成した総工費400億円、総貯水容量196万立方メートルという加古川大堰により、流水量が正常に維持されるようになり、洪水被害はなくなりました。


◆厄神駅 〜住民の祈りと築山神社〜


厄神駅は加古川線と三木鉄道が連絡し、加古川駅の高架化に先駆け橋上化しています。厄神駅の利用者は国包地区の住民がほとんどのであり、同じ国包地区に住み三木鉄道沿線の住民も厄神駅で乗り換えて、加古川駅に向かいます。駅周辺は、加古川市の北の玄関口として開発が予定せれている地区であるため、駅周辺には広い駐車場や駐輪場が設置されています。
川に近いこの地域は江戸時代の頃まで、洪水の被害に苦しめられ、人々と洪水の戦いの跡が現在に残っています。
宝暦6年(1756年)に大阪で商人として成功し富を得た国包出身の長浜屋新六郎が、いつも洪水の被害が絶えない加古川沿いの郷里を水害から救うという目的から、出水の際に人々が避難できる場所と、特に牛馬を避難させるために、小高い丘である築山を造りました。

厄神駅と築山神社 そして土地の人々が感謝の気持ちと安全への祈りを込めて築山神社が建てられました。
また、そこには市指定文化財にもなっている「国包の榎・椋の樹」という大きな木があります。
国包の榎・椋の樹は樹齢240年と推定され、遠くからは1本の大木のように見えますが、実は2本の榎が1本の椋の木を挟むように生えているもので、3本合わせた幹の周りは約7mもあります。


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