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海水浴が出来た昔の海

その昔、加古川に暮らす人々にとって、海と言えば別府海岸でした。
別府海岸は加古川の東岸から別府川の西岸にかけて加古川市のほぼ南限いっぱいの尾上町と別府町の海岸線約2.5kmのうちの東半分を占め、海水浴・潮干狩り・魚釣りなど、人々の憩いの場であり、子供達にとって、絶好の遊び場でもありました。

海水浴・潮干狩りで賑わう遠浅の砂浜
写真1
写真提供:加古川市史編纂室
加古川の海岸線は別府から尾上まで延々と防潮堤が続いていました。
防波堤の大きく曲っている所(通称「マガリ」)から東の海岸は遠浅の砂浜で、一年で一番潮のひく日には沖合い300mまで歩いて行っても背が立つほどでした。
松林が続く美しい海岸線、遠浅の海水浴場
春には潮干狩り、夏には海の家が並び、たくさんの海水浴客で賑わう憩いの場となっていました。



別府海岸とシンガイ
写真2
写真提供:加古川市史編纂室
現在、「30メートル水路 ※1」一帯から神戸製鋼所のある地域は、昭和30年代、砂浜の別府海岸と「シンガイ」と呼ばれる湿地帯でした。
「シンガイ」とは新田開発のことで、新しく開いた土地のことを意味しています。
江戸時代末期(1800年代初め頃から幕末にかけて)に、現在の加古川市別府町から尾上町にかけての海岸部は東側から「岩崎新田」、「千代新田」、「金沢新田」と時代を追って造成されていきました。
当時の記録によると、三つの新田合わせて、約70町、700石くらいはあったと考えられます。
造成技術の進歩と人工増加や殖産のために、海岸部の湿地帯や砂浜の造成は進められたようです。
しかし、治水・利水技術も進歩していたようですが、実際には水利でどの新田も苦労していたようです。また、海岸ということで、高潮による被害も受けました。
戦前までは「金沢新田」は水田として利用されていましたが、戦後は台風で防潮堤が決壊し高潮が押し寄せ使用できなくなり、一部を除き「シンガイ」と呼ばれる浅い沼地の様になりました。


※1 「30メートル水路」は東西約3キロほどある人工的につくられた水路で、
  当初は30メートルの幅があったためこの名称が付けられました。



別府海岸とシンガイ
写真3
写真提供:加古川市史編纂室
「シンガイ」の他に、防波堤の北側には平行して「オオミゾ」「コミゾ」と呼ばれる大小2本の溝がありました。
そして、海岸・オオミゾ・コミゾ・シンガイは無類の魚介の宝庫となっていました。
「マガリ」付近では、カレイやキスなどが、汽水域の「オオミゾ」「コミゾ」では、ボラやウナギがよく捕れました。
この他、海とオオミゾの水を調整する「ワンド」と呼ばれていた石積みの「バームクーヘン」のような形をしたものが防波堤に接し、海と大ミゾの四方に4つの水門がありました。
ワンドでは大人と子供と一緒になって、ボラやイナ(ボラの幼名)を捕りました。
時には、スズキ、チヌ(黒鯛)、カレイなどの大物が捕れることもありました。
これらの全てが子供達と魚との遊び場であり、多くの魚の種類、生態、捕り方を覚えた自然の学習場所であったのでした。