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この人に聞く

昭和30年代に加古川下流から別府川の間に存在した、別府海岸で少年時代を過ごし、現在、加古川流域研究所の研究員をされている田下明光氏に、子供の頃の話をしていただきました。(加古川流域研究所 「シンガイ・オオミゾ・ワンド 」研究室へ)



プロフィール
田下 明光(たした あきみつ)さん
田下 明光(たした あきみつ)

ラジオ関西営業局 営業部長
日本民俗学会会員
播磨学研究所研究員
専門分野: 民俗学
  (日本の墓制・伝説・民話・境界について)
  (職人の世界について)
著書:  ・「播磨路の職人さんー待の匠を訪ねて」
   (1998年、神戸新聞出版センター刊行)
   ・「加古川の民俗」 
  (1985年、加古川市教育委員会刊行)
   ・「中山・緊急民俗調査」
   (1973年、兵庫県教育委員会刊行)
  等、その他多数出版


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田下さん
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インタビューの内容

子供の頃の夏休み
子供の頃、夏休みは毎日海へ行ってました。
朝はラジオ体操、一旦家へ帰って昼からは海水浴、
夕方からは、魚釣りのエサををとりに行きます。
今使われているエサは、全部捕ることができました。
エサを捕って魚釣りをして泳いで、それの繰り返しの日々でした。

子供の頃の遊び  
土用の丑の1週間ぐらい前になると、うなぎを専門で捕りに行きました。
なぜかというと、捕ったうなぎを料亭に持っていってこづかい稼ぎをするためです。
うなぎの捕り方は、1mぐらいの竹ヒゴの先に、ひらがなの「し」の形をした長いうなぎのハリを付け、その先に束にしてミミズを付けます。ふさがけの状態です。 それを石と石の間にいるうなぎの前にたらします。
エサを食べに来たら、「し」のハリの先でうなぎのエラをパンと引っ掛けて、網で受けます。
この方法は、他のところでもやっていたみたいです。
去年、明石川でやっているのを見ましたし、 先日、島根県出身の同僚が同じようなことを話していました。
捕った魚は全部食べていました。
ブラフに入れておいて、食べる時に食べる分だけ持って帰ります。 小さい魚は逃がしてましたね。

子供の頃あった砂浜
10年ぐらい前は、わずかですが砂浜が残っていました。
しかし、掘ってみたら下の方は真っ黒の泥でした。
息をしていないからです。浄化作用がなくなってしまったからでしょうね。
生きている間は、どこまで掘っても白かった。
自然のモノを自然じゃないモノで侵してはいけないのです。
例えば、残っている砂州を四輪駆動で走り回ったらどうなるか、自分のタイヤが踏みつけた砂浜や生き物に気づいて欲しいのです。
できれば、砂浜は裸足で歩いてください。生身の身体で自然を感じることが大切なんです。
素足で海辺の命を感じ取れる浜辺。それを残すのが大人の仕事なんです。