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工場が立ち並ぶ今の海

時代の流れとともに、海岸は埋め立てられ、工場が建ち並ぶ工業地帯へと変貌し、昔の面影を失くした別府海岸。
その結果、海での遊び場は数少なくなってしまいました。
しかし、昔のままは無理としても子供達と遊ぶことができる別府の海岸を取り戻すために、様々な取り組みも行われています。

高度成長期に伴う時代の流れ
1960年代に入り高度成長期になると、日本各地の沿岸は埋め立てられ、工業用地などに変化を遂げていきました。
人々の生活を豊かにするために、幸せになるために、その時は、多くの人々が疑問を持たなかったのかもしれません。 時の流れ、勢いというものであったのでしょう。
別府海岸も例外ではありませんでした。
昭和42年の夏を最期に、それまで海水浴、潮干狩り場として多くの人々に親しまれてきた加古川市の別府海岸とその北側の地域は姿を消していきました。
その後、埋め立て地として変貌し、工場地として再スタートしました。



別府海岸とシンガイ
加古川市南部の臨海地域は、昭和30年代になると重化学工業の立地が進み、昭和39年工業整備特別地域にも指定されました。
これに伴い、海浜埋め立てが進み、周辺の水田が大きく減少、昭和40年代になると、臨海部での埋め立て造成事業が完了しました。
重化学工業が発展した昭和40年代、加古川南部の臨海地域埋め立てによる工場誘致に伴い、景気の波に乗り、神戸製鋼所金沢工場が建設されました。



海と共存する潤いのある街づくり
写真2
しかし残念ながら、海を埋め立て工場を建設するということは、結果として、子供達の遊び場を減らすことになりました。
現在では、加古川市で海に面している地域は加古川河口付近だけです。
しかし、海釣り公園が作られたり、少しでも海を取り戻そうと様々な取り組みも行われています。
例えば神戸製鋼所金沢工場の北側に流れる「30メートル水路」です。
「30メートル水路」は、東西約3キロほどある人工的につくられた水路で、当初は30メートルの幅があったためこの名称が付けられました。
現在は自然に戻すという考え方のもと、葦とかいろんな植栽をし、水の浄化に心掛けています。
昔のままの自然は無理でも、もう一度、子供達と遊ぶことができる別府の海岸を取り戻したい、人々の声に、そして思いに応えるために、海と共存する潤いのある街づくりをテーマに、様々な活用法も考えられています。