〜提灯流し〜
加古川流域ではお盆になると、「提灯流し」が行われました。提灯に明かりを灯し、先祖の供養をするのですが、その明かりがとてもきれいで印象深い思い出のひとこまになっています。
今では、「提灯流し」は下流を汚すとの理由から取り止められていますが、そのかわりに加古川花火大会が催されています。
〜誓文(せいもん)払い〜
また当時、年末になると「誓文払い」が大々的に行われました。「誓文払い」は今で言う「年末謝恩セール」のようなものです。当時、寺家町商店街通りや本町商店街では、「誓文払い」に向けて店が1年間ためた商品を奉仕品として街の人達に年に一度還元していました。普段高価なものもこの時はお値打ちに手に入ることもあり、ニッケ加古川工場や印南工場に勤める3000人近い女工さんや西脇、上荘 、八幡、志方方面からの人達で、とても賑わったものでした。「誓文払い」に行くと、今も寺家町で営業を続ける「まる万食堂のうどん」を食べられる事が楽しみで仕方なかったものです。他の街から来た人たちも、このうどんを食べるまでは 帰ろうとしないほど昔から有名でした。当時は一杯6銭だったと思います。お祭りの時の小遣いは10銭で、今の1000円くらいに相当するでしょうか。大人も子どもも皆が楽しみにし、街が最も活気づいた「誓文払い」は今も大切な思い出です。
〜遊び〜
今とは違って遊び道具も少なく、自分達で作りました。自分達で切り出した竹でそりを作って堤防の土手を滑り降りたり、時には川に入って魚を取りました。さらには加古川鉄橋から川へダイビングし、大橋脇の交番のおまわりさんにひどく怒られたこともありました。まだまだとっておきの遊びがありました。当時、ニッケ工場へは「トロ橋」と呼ばれる引込み線があり、これには1日に数本トロッコ電車が走っていたのです。この貨車に隠れて乗りこみ、見つからないかとドキドキしながら、でも楽しくて仕方が無かった事を覚えています。
〜子どもたちへ〜
私のライフワークとして、近所の小学校へ「加古川の歴史」を話すことがあります。私の子どもの頃は、今とは違い、物は無かったがおおらかで心の温かい時代でした。子どもながらに良い事も悪い事も知っていましたし、近所のおじさんやおばさんが、時には親よりもきつく叱ってくれたりしたものでした。特に、学校で過ごした時間は大切な思い出です。この頃の学校と言えば、先生の存在は絶対的でした。学校で先生にどつかれて家に帰り、親に「先 生にどつかれた。」と言えば、逆に「お前が悪い。」と、またどつかれるといった具合でした。また、子ども同志で喧嘩をしても、親はそこに介入せず、それでもいじめは無かったように思います。この事には、「がき大将の存在」が大きかったと思います。がき大将は、弱い者の味方であり、子どもたちのあこがれでもあったのです。こんながき大将は次から次へと代々受け継がれていったはずなのですが、気が付くと、今の子どもたちからは、がき大将がいなくなってしまいました。最近学校が変だというニュースを良く聞きますが、昔のようにがき大将が復活する日を夢見ています。
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