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クローズアップ!この人に聞く 2000年に市政50周年を迎えた加古川市。歴史ある街に住み、支えてきた人々がいます。その中の一人、寺家町にお住まいの立石氏に貴重な思い出話を語っていただきました。
立石氏の住む寺家町は、JR加古川駅南西に位置し、寺家町商店街通り中心に南北に町が存在します。

  寺家町会長 立石常夫さん

加古川の歴史を子や孫だけでなく近所の子供達に語り継ぎ、今なお現役でご活躍の寺家町3丁目町内会長 立石常夫氏。(80歳)


 

「小さい頃の思い出」

〜思い出の加古川〜

今も昔も、この街の人にとって切っても切れないのが、加古川の存在です。それは、子供にとっても同じことでした。この加古川の豊富な水量を求めて、日本毛織株式会社(ニッケ)が建てられ、そこに働く従業員の娯楽の場として劇場や映画館そして商店街が賑わっていました。子供達にとって本町辺りの堤防は格好の遊び場でした。本町は、加古川大橋東詰に位置し、春日神社境内には、丸亀神社(赤い壁で通称「赤壁さん」)などが並んでいます。赤壁さんには化猫話が伝えられており、昭和12年頃には映画にもなりました。近くの堤には、昭和8年に竣工した加古川河川改修工事記念碑や、二ッケ社宅倶楽部という、加古川に現存する唯一の異人館があります。この異人館は、日本毛織加古川工場建設の為、明治31年に仮事務所として建てられたものです。この界隈は、今も当時の面影を色濃く残しています。


  〜わくわくする行事〜

私の子供の頃といえば、時代が大正から昭和に移り、街並みも近代化の様相を呈していました。加古川尋常高等小学校を卒業した昭和8年ごろは、度々洪水で人々を苦しめた加古川の河川改修工事が竣工し街中には花電車が走りました。そして、お盆になると加古川の提灯流し、年末になると誓文払いと子供心にわくわくする行事が目白押しでした。それらについて、少し詳しくお話をしたいと思います。

  〜提灯流し〜

加古川流域ではお盆になると、「提灯流し」が行われました。提灯に明かりを灯し、先祖の供養をするのですが、その明かりがとてもきれいで印象深い思い出のひとこまになっています。 今では、「提灯流し」は下流を汚すとの理由から取り止められていますが、そのかわりに加古川花火大会が催されています。

〜誓文(せいもん)払い〜

また当時、年末になると「誓文払い」が大々的に行われました。「誓文払い」は今で言う「年末謝恩セール」のようなものです。当時、寺家町商店街通りや本町商店街では、「誓文払い」に向けて店が1年間ためた商品を奉仕品として街の人達に年に一度還元していました。普段高価なものもこの時はお値打ちに手に入ることもあり、ニッケ加古川工場や印南工場に勤める3000人近い女工さんや西脇、上荘 、八幡、志方方面からの人達で、とても賑わったものでした。「誓文払い」に行くと、今も寺家町で営業を続ける「まる万食堂のうどん」を食べられる事が楽しみで仕方なかったものです。他の街から来た人たちも、このうどんを食べるまでは 帰ろうとしないほど昔から有名でした。当時は一杯6銭だったと思います。お祭りの時の小遣いは10銭で、今の1000円くらいに相当するでしょうか。大人も子どもも皆が楽しみにし、街が最も活気づいた「誓文払い」は今も大切な思い出です。

〜遊び〜

今とは違って遊び道具も少なく、自分達で作りました。自分達で切り出した竹でそりを作って堤防の土手を滑り降りたり、時には川に入って魚を取りました。さらには加古川鉄橋から川へダイビングし、大橋脇の交番のおまわりさんにひどく怒られたこともありました。まだまだとっておきの遊びがありました。当時、ニッケ工場へは「トロ橋」と呼ばれる引込み線があり、これには1日に数本トロッコ電車が走っていたのです。この貨車に隠れて乗りこみ、見つからないかとドキドキしながら、でも楽しくて仕方が無かった事を覚えています。

〜子どもたちへ〜

私のライフワークとして、近所の小学校へ「加古川の歴史」を話すことがあります。私の子どもの頃は、今とは違い、物は無かったがおおらかで心の温かい時代でした。子どもながらに良い事も悪い事も知っていましたし、近所のおじさんやおばさんが、時には親よりもきつく叱ってくれたりしたものでした。特に、学校で過ごした時間は大切な思い出です。この頃の学校と言えば、先生の存在は絶対的でした。学校で先生にどつかれて家に帰り、親に「先 生にどつかれた。」と言えば、逆に「お前が悪い。」と、またどつかれるといった具合でした。また、子ども同志で喧嘩をしても、親はそこに介入せず、それでもいじめは無かったように思います。この事には、「がき大将の存在」が大きかったと思います。がき大将は、弱い者の味方であり、子どもたちのあこがれでもあったのです。こんながき大将は次から次へと代々受け継がれていったはずなのですが、気が付くと、今の子どもたちからは、がき大将がいなくなってしまいました。最近学校が変だというニュースを良く聞きますが、昔のようにがき大将が復活する日を夢見ています。

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