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●古代 |
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聖徳太子が16歳の時、仏教を広めるための道場として、加古川を代表するお寺である鶴林寺(かくりんじ)が建立されました。鶴林寺は、釈迦三尊の四天王を祀り「四天王寺聖霊院」と称されていたのが始まりとされています。聖徳太子の壁画が見つかった県下最古の木造建築物、国宝「太子堂」には、釈迦三尊仏・天蓋・須弥壇・壁画があり、また現在宝物殿には、今もアイタタ観音として地元の人に愛されている「金銅製観音像」など多くの仏教美術が残されています。 |
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●中世 |
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平清盛の大巧田に由来する五箇荘は加古川にその中心を置き、後の鎌倉時代には守護所として存続しました。 |
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●中世末期 |
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南北朝時代、加古川には西国に通じる街道の宿があり、播磨最大の軍事、交通の要所でした。 |
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●戦国時代 |
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赤松義則の時代に播磨全域は赤松氏によって掌握されました。末期にはその力も衰え土豪が乱立していましたが、豊臣秀吉の時代、天正8年(1580)にようやく播磨は平定されました。 |
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天正6年(1578) |
別所長治が織田信長に反し、それに従った土豪たちが没落 |
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●江戸時代前期 |
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加古川舟運の開始とともに播磨、摂津や日本海側の地域との商品流通が盛んとなりました。また加古川下流においては入浜塩田ができ、塩の大量生産が始まりました。 |
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●江戸時代中期 |
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この時代、この地方では一揆が多発します。しかしその一方で商業的農業が前期に盛んとなり、中期に綿作が発展、加古・印南地方は長束木綿の特産地となりました。また山陽道沿いの村や国包村に農村商人や職人・日雇い等の非農業人口が多くなり、宿場町加古川は大いに発展しました。 |
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●江戸時代後期 |
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天保4年(1833)時代の変化をうかがわせる加古川川筋大一揆が起こりました。これは領主や村役人に対する一揆でなく、豪商や豪農に対する不満が爆発したものでしたが、農豪商の蓄積した資本により海岸一帯に新田が開発されていきました。 |
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●明治時代 |
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加古川は、西国街道の宿場町として栄え、本陣や旅籠・店屋が多く立ち並び、加古川の渡しには人夫が100人、馬子が150人いたとされています。また、神戸港に近いことから文明開化の波がいち早く押し寄せ、チョンマゲを断髪する人があらわれましたが、洋服を着るものは少なかったようです。
また播州鉄道の開通とともに、加古川駅前ではアーク灯がともり、花電車が走るようになり、周辺の農村を商圏とする商業都市へと近代化していきました。 |
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明治4年(1871) |
廃藩置県によって姫路県となり、翌年には播磨県に。 |
明治9年(1876) |
豊岡、飾磨、名東、兵庫が合併して現在の兵庫県となる。初代兵庫県知事は伊藤博文が就任。 |
明治21年(1888) |
山陽鉄道が明石から姫路まで延長、その沿線に新しい工場の建設が開始される。 |
明治45年(1912) |
物資輸送の近代化と東播磨地方の地域開発のため、播州鉄道の敷設工事が着工。 |
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●昭和初期 |
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加古川駅は国鉄山陽線と播州鉄道が相互に乗り入れをする駅となりました。当時駅前には商店街が賑わいを見せ、活動写真館、銀行、役場、公会堂や煉瓦作りの工場などモダンな欧風近代建築物が建ち並びました。
また東播磨臨海部においては、大恐慌をしのいだ企業の進出が相次ぎ、加古川町の日本毛織が活況を呈しました。 |
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昭和8年(1933) |
16年の歳月をかけた加古川大改修も竣工し、甚大な被害を与え続けた加古川下流域の水禍が克服される。 |
昭和9年(1934) |
防空大演習が行われると一気に軍国色が強まる。 |
昭和11年(1936) |
阪神地域の防衛を目的に尾上村に加古川飛行場・火薬庫・通信教育隊・尾上神野間軍用道路、翌年には野口村に高射砲台が設置 |