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升田堤
「升田堤」の完成により、加古川の流れが現在の形となった。
「升田堤」の完成により、加古川の流れが現在の形となった。

かつての加古川の流れは現在の西川との合流点付近から2つに分かれ、西は高砂市荒井町方面へ流れていた。
かつての加古川の流れは現在の西川との合流点付近から2つに分かれ、
西は高砂市荒井町方面へ流れていた。
加古川の右岸、東神吉町から米田町にかけての堤防は、かつて「升田堤(ますたつつみ)」と呼ばれていました。これは万治元年(1658年)に姫路藩主・榊原忠次が築堤したもので、現在の堤防の基礎ともなっています。古くから加古川の流れはこの辺りから東西二つに分かれており、参勤交代の大名や旅人は二つの瀬渡しで難儀し、地域の人々は毎年のようにおこる水害に苦労していました。忠次はこの二つの流れの間に堤防を築いて流れを一つにし、かつての河床に新田や畑を開くことを決め即座に工事を実施に移しました。なぜなら当時、度重なる水害による被災者救済や石高の低下が藩の財政を圧迫し、築堤による治水と新田開発に大きな期待をかけていたからです。こうして藩の命運をかけた「升田堤」には人員延べ60万人を動員、工期は約1ケ月余りという驚異的な規模と速さで完成し、開墾した新田は藩に大きな利益をもたらしましたが、水害は完全に防ぐ事はできなかったと伝えられています。