「中道子山城」は志方町の東に位置する城山の頂上に築かれた山城で、永正15年(1558年)に播磨一円を支配していた赤松円心則村の子・氏則が築いたとも、また室町時代に赤松繁広が築いたともいわれ、築城については諸説あります。嘉吉元年(1441年)に起こった嘉吉の乱によって赤松惣領家は断絶させられ、それと同時に「中道子山城」の城主であった赤松繁広も同じ運命を辿ったといわれています。しかし、その後の応仁・文明の乱(1467〜1477年)で軍功をあげた赤松政則が赤松家を再興し、断絶させられた繁広の子・繁景が「中道子山城」の城主に復帰しました。やがて赤松家が次第に力を持つようになると、重臣であった浦上氏や出雲の尼子氏・摂津の三好氏らと勢力争いを繰り返すようになりました。その後「中道子山城」は天正5〜6年(1577〜1578年)の羽柴秀吉による播磨攻めで別所長治の支城として落城しました。
|
|
戦死者の冥福を祈るために安置された城山山腹にある磨崖仏。 |
|