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加古川城跡に残る案内看板。これ以外に城跡を示すものは残っていない。 |
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加古川は古くから西国街道の宿場であったことから鎌倉時代には播磨国の守護所が置かれていたようで、この地域の要衝であったことから、守りの要として室町時代に「加古川城」は築かれました。初代城主は糟屋有数と伝えられ、天正5〜6年(1577〜1578年)の羽柴秀吉による播磨攻めを行なった際、播磨攻略のための軍議の場を「糟屋の館」で開いたと記録に残されています。「館」と記されていることからも当時の「加古川城」は平地に築かれた平城だったようです。また秀吉は後に行なわれた別所長治の三木城攻めの時、「加古川城」を兵站基地として利用しており、秀吉の全国統一後に城主となったのが、賎ヶ岳の合戦の際に秀吉の直属の配下として勇猛に戦い「賎ヶ岳七本槍」の一人として有名な糟屋武則と伝えられています。しかし武則の子・宗孝が大阪夏の陣で討ち死した後、「加古川城」は廃城となってしまいました。 |